拾柴柴拾

日本語版も作成しておきました、文末をご参照ください

??苏州城里,家家户户还用着灶头,汤罐①的年代。

  到了做饭的时候,炉膛里的柴火舔着铁锅底,柴烟顺着灶台上的砖砌烟囱一直穿过灶屋间的屋顶,飘出一道淡淡的青烟。正在在弄堂里嬉戏的孩子们闻着这个烟火气味,如同听到了斋堂前云板的“铛铛”声,不由自主地,肚子开始“叽里咕噜”念起“供养偈”来。特别有感觉的应该是傍晚,夕阳西下的时候,千门万户“炊烟袅袅”不单是鲜活日子的印记,也是归乡游子眼中“家”的象征。

  到我小时候,煤球炉已经成为主流,简便小巧的洋风炉因为使用方便,即便煤油要凭票供应,也时常作为辅助,应急之用。与现今煤气灶和电磁灶的搭配相仿佛。煤炉生火需要一些耐烧的“硬柴”,苏州人称为“木骨头”(其实就是古文中的榾gu柮duo),来源包括破桌子的大腿,拆下的旧门窗之类,先用斧子劈开,再用一种倒三角形状的“斫柴刀”砍成小段。堆在灶屋间一角备用,旁边多半还有一口带木盖子的水缸,这样的搭配正好是“薪水”的直观注解。

? ?很早,我就从父亲那里继承了这门手艺,挥刀砍柴时,想起过孙大圣求仙时遇见的樵夫,虽然我没读过②,却也心驰神往。有时又对着沁入刀身的斑斑红锈发愣,想起过被地主又据说是地主婆拉过手臂连砍三刀的雷锋:“看你以后还敢偷我家的柴!”,他也只有我这么大,受了多大的苦啊!“阿囝,柴啊斫好了?”(阿囝,柴砍好了吗?)父亲的催促声传来,我突然带着阶级情感,奋力向地上的已经肢解开的木骨头狠狠砍去。

镜头一:

  木柴长短均匀,粗细也差不多,父亲验看合格:“倒劈得蛮好格那,勿错!”夸奖一句。

镜头二:

??怀着对地主阶级的恨,高举斫柴刀,劈下去却没砍到木头中间,只带到了木头上部,刀刃落在垫着的石墩子上,电光火石之间,眼前飞过一物,幸亏我机警地闪过,直接擦着蹲在屋檐上看热闹的老猫耳朵上飞过,吓得它抱头鼠窜:“哗啦”踢下一片瓦片,差点直接滚落下来,回过神来,我发现刀已被震脱了手,刀刃也卷起一片。父亲闻声而来:弄啥格?做该点事体就格样“拾?i柴e?”咋?(搞什么?做这么点事就这样毛手毛脚啦?),我只得将来由说明,他一听,也不禁脸色凝重:“下次倷还是想想孙悟空碰着斫材人的故事,做生活仔细点!勿碍吧?”(下次,你还是想想孙悟空遇见砍柴人的故事,干活当心点!没事吧?)“勿碍!”(没事)

  

???其实,镜头二是我的杜撰,为了引出“拾柴”请父亲配合,一起表演了一次,镜头一才是真实的情形。

 吴语区域以外的朋友满脸疑惑,“拾柴”应该大家一起来啊?众人拾柴火焰高不是吗?你这杜撰的镜头二里令尊叱责的“拾柴”从语气感受来看肯定不是好事,说来听听!好,诸位,现在进入正题。:“拉拉扯扯,我看倷亦(há)有点“拾柴”勒嗨,豪燥讲?(nià)”(拉拉扯扯,我看你也有点不着调,快说啊)小苏州们也有点不满起来。

  

??说起“柴”的种类除了前面提到的“木骨头”俗称“硬柴”之外,还有杂树上砍下的树枝,晒干了也是柴的主力,是真正樵夫的劳动成果。

另外,江南一带曾经用的最多的还是稻柴,麦柴,茅草,豆萁之类的农作物的秸秆,因其柔软俗称“软柴”或者“细柴”。开门七件事,“柴”排在第一位,可见其重要程度。前几年,东,西山里那些古村落中,老宅子中无人的大厅里,多处可见堆满了一捆捆修剪下来的果木的枝干,带着叶子一起被晒干了,和失去了摆设的厅堂一样呈现着一种发黄的老照片里的隔世感,而老房子主人的子孙们则住在一旁新修的钢筋水泥,铝合金门窗的新居里,把“柴”留在古老的明清建筑里,不知算不算是对“柴”的一种尊重?

  

??做饭时,从稻柴束,麦柴捆里抽出一把,弯成圆形,搭头处略一打结,点上火,火钳一夹送进灶里,立刻腾出旺盛的火焰来,底火稳定之后,再适量塞一些硬柴保持火力,最后又须塞进几个软柴把稍作升温,闷上一阵,这样“软硬兼施”下煮出的柴火饭带着锅巴,是让人怀念的童年味道。还记得灶台后的炉火在脸上活泼地跳跃,转眼间我们离开“炊烟袅袅”的时代已经过去了多少年?

  

??“拾柴”便是将所有这些柴火收集起来搬进灶屋一角的整个过程。你可以想象一下:无论是在石皮天井里劈木骨头,还是上果园修建枝条,还是田间地头将脱粒后的秸秆收拢起来,收割茅草后穿上绳索肩挑手提,整个过程都伴随着细枝末节,悉悉索索,滴滴答答,跑冒滴漏,远没有卖豆腐的小哥用铲刀切割豆腐那样悦目爽利。

  

??不过,我翻开历史一查,又发现还有一种“拾柴”则是因为穷困,或者自身懒惰。无柴可烧,于是到处转悠,看看有无木骨头,小树枝可“拾”,与以前在铁道旁捡煤渣,汽车站里“捉财积(蟋蟀)”(捡烟头)同理,又和前段时间“民间环保专家兼国学沈大师”的行状有类似的感觉。这或许是接近真实源头的由来,并且有历史可考(见后记),但其实并不好玩。

???总之,根据上述的源头,人们将“拾柴”的意思引申出来,形容做事不严谨,考虑不周全,关系不协调,笨手笨脚,手忙脚乱,奇形怪状等等一切不圆满,不舒适的现象。

*上厕所时脑海里还在哼着“千年等一回,等你回来哟”,忽然发现忘带手纸,在风吹屁股冷的季节里,一直挨到来个熟人,总算没有让“一张纸难死英雄汉”,算得上是一种“拾柴”。当年还没有手机。现在么,上厕所玩手机,手机掉在蹲厕里则是新时代的“蹲坑③拾柴”

*三天两头夫妻关门相骂,伴以掼家生(物件),喊救命。弄得邻居心惊肉跳,但天气好时,却又见两人若无其事挽手徐行,还不时与人客气打招呼。这也会被人在背后称为“拾柴”

*带着帽子翻箱倒柜,奇怪了,我去年那顶带洋文的帽子哪里去了?家里翻得一塌糊涂,颓然坐地,四顾茫然之际,不免拍拍头顶,和电脑反应慢时怒击机箱同理,阿耶?原来早就戴在头上了,这也是“拾柴”的一种。

*斗室之中猫三只,狗两头,金鱼缸放在饭桌上,厕所里还挂着两只鸟笼,各种气味杂陈,此君却还能悠然其中,跟着收音机抑扬顿挫大唱“空城计”,自然这也是“拾柴”之一。

*演技不如人,被导演换下,愤愤不平。于是剧透剧组的内幕,导演的水平问题。现在网络时代,此类花絮尤其常见,非但自己没啥好处,有时连带整个剧组一干人员,投资方统统倒霉。这是一种损人不利己的“拾柴”行为,日后被人敬而远之的可能性很大。

*结婚迎亲,车到新娘家,甫一下车,突然那被要求增加彩礼若干,否则概不出货。另一边,宴会厅里宾客云集,都翘首以待。说到这里后续的结尾就多了*加钱了事*坚决不答应打道回府,婚事取消*平素与新人闺蜜早就相熟,斗胆一问,居然车前换妻,伴娘做新娘……不胜枚举,这个是纷繁杂乱的“拾柴”。

?:“那么,像去年日本那种因阻止新冠病毒传播,宣布了紧急事态,还没闷死多少病毒之际又宣布取消,政府反倒推出促进消费的,等等补贴活动,造成了感染人数不断增加,可不可以叫拾柴呢?”我对于这样善于提问朋友非常赞赏:“这是标准的拾柴行动,完全符合苏州话里“拾柴”的语境”“明白了,谢谢!”“不客气!”

  “拾柴”一般作形容词解,后面可以加“户头”,“朋友”构成名词,意思就是带着“拾柴”性质的人,家伙,毫无疑问是贬义的。除非在亲近人群之中,无大无小的对象之间方可戏谑使用,当面说这个词就充满了煽风点火的味道,容易把人际关系烤成枯焦的锅巴。

???还有一词“落拾柴”读起来“落”和“拾柴”稍有间隔,意思是“更胜一筹”的“拾柴”状态,一般是指手足无措的应激反应,好不容易一捆柴挑到门口,一不小心踩到西瓜皮,一个跟头摔下去,辛辛苦苦理好的硬柴也好,软柴也罢散落一地,窘迫异常,即便再收拾也是一地碎屑。

  沈大师最近音讯全无,据说又重操旧业。可见其不是凡人,独具不可揣摩的处事准则。反观周遭的人们,争做沈师母的,愿做干儿子的,抢流量,争合影的这些乱象,以及网络上曾经热传的情形,真是“落拾柴”

  小时候黑白电影里:“请司令增援,卑职快守不住了”“你放心,我已经派飞机带军需物资增援你部”画面里都是跑龙套的角色急急忙忙,来来回回的前后乱入,滴滴答答的无线电发报机的声音响个不停:“举起手来,缴枪不杀”突然黑洞洞的枪口对准了打电话的那位,于是颓然丢下“喂喂,你一定再给我守住12小时,我给你请功”电话听筒像钟摆在桌子腿边摇晃。这就是“落拾柴”的诠释一例。也可以参考结婚突发事件那个例子,一片哗然的状态亦称为“落拾柴”

  货车走在路上突然翻车,如果是因为事先没做好捆扎之类原因,导致鸡蛋倾覆,肥猪跳车,西瓜满地翻滚等等,驾驶员大呼小叫,东奔西跑,放警示牌,打电话报警又错打了,这就是“落拾柴”。但若是不可预料的突发事故造成的,一片混乱之中,引来了大批眼睛雪亮的群众,于是,三轮车,独轮车,扁担,麻袋,赶集似的聚拢来,拉耳朵,抢尾巴,把猪当做了拔河麻绳,左拥右抱护住“胜利的果实”这副吃相难看的样子,我们便说这些群众相当“落拾柴”,兼有素质差,没教养等意味。

??还有一个,苏州话里发音与之类似的“碌l?碌l?乱lu”只表示忙乱的样子,属于客观描述,虽有一些时候意思接近,但终不是一类,“拾柴”是带着笨拙,窘迫的意味的。

:“懂倒是懂了,刚开年,为啥不说点吉祥的,反倒要来提这个不窝心④的词呢?”

诸位:

  新年伊始,先抛出一团烂麻般的这个“拾柴”,我的目的正是为了借着新冠变异,国内感染又有零星增长的背景,借以提醒大家切勿忙中出错,同时又有让一切魑魅魍魉先现出原形,好一网打尽的期盼。所以,下来一期的内容就要拨乱反正,说一个终结“拾柴”状态的词,也希望看不见的病毒早日消散,还人间一个平平安安的新年。

?,1,3

单词解释:

①汤罐:灶台上与炉膛相邻处嵌入的储水容器,利用烧火的热力,可以方便地得到热水,是“小厨宝”的前身。

②黄庭经:不是诗人黄庭坚的哥哥。是指道家的经典,专门讲述修炼长生之术。

③蹲坑:旧时五谷道场里,跨沟而蹲。苏州口语中至今犹存。

④不窝心:不愉快,不舒服之意

后 记:

  “拾柴”溯源可以追到昆曲之中的里的,讲述吕蒙正(~)北宋宰相未发迹时的窘困的故事。寄身寒窑,无柴可烧,只得“拾柴”,听云板响去寺庙蹭饭又遭僧人戏弄。上文的阐述由此而来。至于或应为“席柴”为正,则推敲不出详细的出处,因此,本文是一家之言,欢迎有识之士另起炉灶,任尔软柴,硬柴,拾柴,烧得好饭就是好柴,解得明白就是老师。

多说平常话,不作应制文

往期回顾:

老宅里的绿毛龟

揩油

寫意

日本語版はこちらから

蘇州弁筆談の「拾柴」(柴を拾う)

 それは蘇州城内で戸々がまだ竈、湯甕①を使っていた頃のことだった。

 ご飯を作る時、竈の中の薪の炎が鉄鍋の底を舐めて、竈の表にある煉瓦葺きの煙突を通して台所の屋根越しに、薄青い煙が漂う、巷で遊んでいる子供たちはその匂いを嗅ぐと、まるで斎堂前に吊るされた雲板を“かんかん”と叩かれた響きを聞いたように、お腹が“ペコペコ”と「供養賛」を唱え始めた。特に印象深いのは夕方の時に、西に沈んでいく夕日の中、千門万家の炊事の煙が舞い上がったものだ。生き生きとした生活の印になるだけではなく、帰郷の遊子の目の中の家の象徴にもなっている。

 私の幼いころ、練炭焜炉は既に主流となっている、小さくて手軽に使える洋風炉(石油焜炉)は灯油を買うのに切符が要るとはいえ、応急のスペアとしてやはり時々使う。今のガス焜炉と電磁焜炉との組み合わせをお彷彿とさせている。練炭焜炉に火を点ける場合は少し燃焼に耐える“硬い柴”が要る、それは蘇州人で“木骨頭”と呼ばれている物で、破れた卓の太腿や取り壊された古い木のドアや窓なども含まれている、それらの木材をまず斧で縦方向で断ち割って、それから逆三角状(幅が柄へ行くほど狭くなる)の“柴切り刀”で小さい短冊まで切る。その完成品を台所の一隅に詰め込んでおく、隣に多い場合は木造の蓋が付いた水甕が一つある、その組み合わせは正に“薪xīn水”shǔi(中国語では給料の意味)の最も直観的な注釈になっている。

 大分前から、私は父親に教えられてこの柴短冊を切る技を受け継いだ。刀を振る時は、孫大聖(孫悟空)が仙人に長寿不老の術を求める際に出会った樵(きこり)さんのことを思い出して、憧れていた。ところが私は「黄庭経」②を拝誦したこともなかった。また、ある時は錆に赤みがかった刀の刀身を見つめて、ぼうとした時、地主に又は地主の女房だと言われたような人に手首を引っ張られて、柴切りの刀で三回も切られた雷鋒③のことを思い出した:“今度またうちの柴を盗むか?”、悲惨の極りだ!当時、彼は私ほどの年齢しかなかったし、いかにひどく苛められたのだろうか!“柴切り終わったの?”父親の催促の声が伝わって来た、私は階級の情を注いで、急に地上に置かれている既に解体された“木骨頭”に向けて大きな力で刀を振った。

雷鋒に学ぼう

シーン壱:

柴短冊が長さも太さも均一にできている、父親の検品で合格だと判定された:よくできているね!と一言褒められた。

シーン弐:

地主に対する恨みを抱えたので、刀を高く持ち上げたせいか、振り下ろしたら、木の中間に当たらず、上のほうに偏って、ちょっと擦れただけで、刃は直接下敷きの石のほうに当たった、ほんの束の間に、目の前に飛んでくる物を私の機敏な動きで避けたが、軒先に蹲っている興味深く私の作業を見つめている年を取った猫ちゃんの耳を擦れ擦れにして飛んで行った、大いに驚かされたようで、慌てて逃げてしまったが、軒先から瓦一枚蹴られて、落ちた、もう少しで直接上から落ちるところだった、私ははっと気づいたら、なんと刀は手から離れたし、刃も一部分巻き上がった。動静を聞いた父親が駆け付けた:何をしているんだ?ちょっとした仕事だけでこんな「拾柴」になったのか?と言っていた、私はさっきの思い出したことを彼に説明したら、彼も顔色を曇らせた:“今度、やはり孫悟空のことを思い出した方がえい、作業中気を付けなさい、大丈夫か?”“はい、大丈夫です”

 実はシーン弐は杜撰の物だ、「拾?i柴e?」の語を引き出すために、父親に協力していただいて、一緒に演出したのだ、シーン壱は真実の状況だ。

 呉方言の地域以外の皆さんはかなり疑惑を持っているだろうと思う、「柴を拾う」というなら、皆で一緒にすべきことだ、衆人による「拾柴」は炎が高いという諺があるのはなないか?あなたが杜撰したシーン弐の中にお父さんが使った「拾柴」はニュアンスからどうもよさそうなことではないように聞こえている、何故?説明してくれないか?はい、皆さん、今から本題に入りましょう。:“四方山話ばかりして、お前もどうも「拾柴」っぽい、早く説明しなさい”蘇州の若造たちすらやや不満そうに言っているね。

 実は、柴(中国語で蘇州弁ではこの柴の意味はたきぎの総称になる)の種類には前述した“木骨頭”俗で“硬い柴”という物以外、また雑木林からカットされた枝などあり、干されてから柴の主力になる物もある、それは真の樵さんの労働成果だ。

そのほか、江南辺りでは昔最も多く使われていたのは稲藁、麦藁、茅、豆茎など農作物の茎類であり、柔らかい為“軟柴”または“細柴”と呼ばれている。生活に欠かさない七つの重要な物(柴、米、油、塩、醤油、御酢、お茶)として、首位を占めているのは“柴”だ、そこから柴の重要性が窺える。数年前に、東、西山の古い村落にある古い邸宅の中の人がいない高堂には、果物の木から切った枝の束が多く積んであるのを見かけた、葉っぱ交じりのままに干されて、家具など陳列物を失った高堂と同様に一種黄ばんだ古写真を見た隔世感があった。古い家の持ち主の子孫たちは隣に新たに建てられた鉄筋コンクリート、アルミニューム合金の窓付きの新居に移している、自分の代わりに“柴”を旧い明や清の旧居にほったらかしているのは“柴”に対してのある種の尊重だろうか?

 ご飯を炊く時に、稲藁の束や麦藁の束から一握り抜き出して、丸めて、継ぎ目の所を簡単に交差して、火を点けてから、火箸で挟んで竈に送り込むなり、旺盛な炎が出来上がった、火加減が落ち着いたら、それから硬い柴を入れて、火力を維持させる、最後はまた軟柴を丸めた物を数個入れて、ちょっと温度を高めて、熱を保つようにする、こうして“軟硬ともに施す”(飴と鞭)方式で出来上がった柴炊きご飯はおこげが付いた物で、幼いころの懐かしい味が付いている。今でもまだ竈の裏に踊っている炎の影が顔に映っているのを覚えている、あっという間に我々は“炊煙”が舞い上がる時代から離れてから何年経ったのだろうか?

 「拾柴」というのは上述した柴を集めて、台所の一隅に持ち込むすべての過程のことだ。想像してみてごらん:石畳の庭で木骨頭を切るなり、山へ行って果樹園で枝を切るなり、畑で脱穀した後の茎を集めるなり、茅をカットしてから縄で締めて、天秤棒で担ぐなり、手提げるなり、そんな作業のいずれも枝葉の邪魔、細々した感じで、よく漏れたりすることになる、遥かに豆腐を売る兄ちゃんが包丁で豆腐を切るようなすんなりとした素早さで見た目でも爽やかなほどではない。

 ところが、私は歴史を調べたところ、もう一種の“拾柴”のことを見つけた。それは貧困或いは自身の怠けで、柴がなくなった、そこで、木骨頭、小枝が落ちてないかと色々な所でうろうろしていた。昔、鉄道沿いに落ちていた石炭の滓を拾う、又はバス停で蟋蟀を捕まえる(タバコの吸い殻を拾う)のと同じ道理だ、尚、先日の「民間環境保護専門家兼国学沈大師」④の行状にも似た感覚がある。そんなことはひょっとすると本当の語源の由来に近いかもしれないし、歴史的な証拠もある(後書きを参照)、だが、実に面白くないことだ。

大家の沈氏が浮浪者の頃の様子

 要するに、上述した源から、人々は「拾柴」の意味を引き出して、不十分に物事をする、考慮が足りない、関係がねじれる、不器用、慌てる、変な行状うなどすべて円満ではない、見て気持ちが悪い現象を形容する場合に使われるようになったのだ。

?トイレに行って、頭の中にまだ“千年かけて待っている、君の帰りを待っているよ”(ドラマ:白蛇伝の主題歌)というメロディーが纏れている、突然トイレットペーパーを忘れたことに気づいた、風吹いて、お尻が寒い季節で、ずっと誰かの馴染みさんが現れてから、ようやく「一枚の紙のため英雄を死なせるほど苛まれた」までにはならずに済んだ(中国語では一文の銭で英雄を死なせるほど困らせたとはあったがここではちょっと変えて一枚の紙にした、その紙っていう意味は分かるだろう)そんなことはある種の「拾柴」と言える。当時はまだスマーフォンがなかった、今なら、トイレでスマーフォンを弄り、ひょっとすると和式トイレに落ちてしまう、それは新時代の「トイレ拾柴」になる。

?しょっちゅう夫婦喧嘩をし、物を投げ合ったり、誰か助けてくれまで叫んだりする。お隣さんたちに胸騒ぎをさせている、しかし、晴れた日には二人がさり気無く、手を繋いでゆっくりと散歩している、また 礼儀正しく他人と挨拶している。そんな人のことを裏で「拾柴」だと言われている。

?帽子を被ったままに箪笥を倒させるほど探していた、おかしいな去年買った横文字が付いたあの帽子は?家を滅茶苦茶乱した、がっかりして床に座り込み、ぼうとしているうちに頭を叩く、それはパソコンの運行スピードが遅れた場合に怒ってキャビネットを叩くと同じことになる、あら、何?ずっと頭にあったか、それも「拾柴」の一種になる。

?狭い部屋に猫三匹、犬二匹、金魚鉢を食卓に置く、トイレに鳥籠二つ掛けてある、様々な匂いが入り混じったが、主人は悠然とラジオに合わせて、節をつけた声で京劇の「空城計」を歌っている、勿論、それは「拾柴」

?演技が劣るため、監督に役を替えられた、恨んで、チームの内部の事情をばらしたり、監督のレベルが悪いとか陰口をしたりする。現在のネット社会においては、そんなエピソードが特に多い、自分には別にメリットがない、ある時チーム全員乃至投資側に全部ひどい目に合わせてしまう。正に他人を損なって、自分にも一利なしという「拾柴」行為だといえよう、今後、皆に敬遠される可能性は大。

?結婚の日、新婦を迎えに行く、実家に車を止めるなり、結納金を更に若干増やさなければ、出荷させないと言われた一方、宴会ホールで集まっている来客は皆首を挙げて、待っている。ここまで来るとその後の結果は分かれる*金を足して何とかする*断固として断った後、引き上げよう、結婚をキャンセルする*平素新婦の親友の誰かとよく接触して互いに既に馴染み合っている、敢えて聞き出してみる、なんと花車の前で思い切って合意した、花嫁の介添えが新婦になった……数えきれないほどある、それは煩雑に乱れた「拾柴」になる。

 :“では、去年日本が新型コロナウイルスの拡散を食い止めるために、緊急事態宣言が一旦出されたが、まだ窒息死になったウイルスの数があまり出ていないうちに解除された、その後更に消費を促して経済を回復させるため「Gotoトラベル」、「Gotoイート」など政府が補助を出している活動が行われた、それが一因で感染者の人数が絶えずに増えつつある、この事例だったら、「拾柴」に当たるか?”私はこのようなよく質問をする方を称賛する:“これは標準的な「拾柴」行動で、蘇州弁中の「拾柴」のニュアンスにぴったりした物ですよ”“分かった、ありがとう”“いいえ、遠慮しないでください”

? “拾柴”の使い方は普通に形容詞として使う、その後に“戸頭(やつ)”“人”など入れて名詞になり、「拾柴」っぽい人の意味になる、貶す意味を持っているのは間違いない。親しい関係、目上、目下などを考慮しなくてもいい者同士の間にしか使えない、当面でこの言葉を使うなら、火を煽るような雰囲気に入り、人間関係を焼けたおこげのような物にさせてしまいがちになる。

???もう一つの詞「落拾柴」があり、読む場合は“落”と“拾柴”に僅かに間隔を置く、意味は更に程度が進んだ「拾柴」状態のことだ、普通は手足が乱れて、間が抜けた応急反応の様子を表す。四苦八苦で柴を門の所まで担いできたところを、西瓜の皮を踏んで、転んでしまった、硬い柴であろうが、軟柴であろうが、とにかく散らかされてしまって、困窮の極りだ、再度拾い集めても、屑がいっぱい残ってしまう。

 沈大師に関する音沙汰は最近全然なかった、話では昔の業界に戻っているそうだ。どう見ても凡人ではない、勝手に忖度できない準則を自ら持っておられる方だ。逆に彼を取り囲んでいた人々に彼の妻になるのを争う人もいれば、甘んじて養子縁組を引き受ける人もいた、ネットの流量を競い合い、奪って写真を撮ったりする騒いだこと及びネットで賑やかに宣伝されたことは真に「落拾柴」だと言える。

 子供の時見た白黒の映画の中に:“司令官閣下、増援をお願いします、小職は多分陣地を守れないと思いますが”“安心しろ、既に飛行機を飛ばして、軍用物資をそちらに送るように命じた”画面には入ったり、出たりしている脇役が慌てている乱入の姿、またトランスミッタの音が絶えずにしている:“手を上げ、銃を捨てたら、殺さない”突然に冷たくて黒い銃口に当てられ、電話をしている奴がばったりと受話器を捨ててしまった:“おい、おい、ぜひ更に12時間頑張ってくれ、お手柄を上に報告するぞ”受話器が時計の振り子のように机の脚を左右に行き交っている。それは「落拾柴」を解釈する一例だ。また、結婚式の例を参考にして、大騒ぎになった混乱状態も「落拾柴」だ。

 トラックが路上を走っている時、急に転覆した、もしそれは事前にしっかり梱包をしていないなどの原因によって、卵が転落した、豚がトラックから飛んできた、西瓜が路面に転がっている状態になり、助けてくれと運転手が叫んだりして、警戒の立て札を放置したりして、東奔西走しながら、警察に電話しようとしたら、また番を間違ってダイヤルした様子は「落拾柴」に当たる。ところが、もしそれは予測によらないことで発生したのであれば、そんな混乱の状態の中、沢山の目が鋭い群衆を引き付けて、三輪車、独輪車、天秤棒、麻袋を繰り出して、縁日になったように集まってくる、耳を取るか、尻尾を引っ張るか豚を綱引きの縄にしたり、両手で右も左も“勝利の果実”を守ったりしている食い方が見づらい場合は今度それらの群衆のことを「落拾柴」と我々は言う、中に躾が悪い、悪質だという意味が込められている。

 もう一つの蘇州弁の中にそれと発音に近い言葉「碌碌乱」がある、単に混乱を示す客観的な描写をする言葉で、ある場合は近い意味がするが、同じ類ではない、「拾柴」は不器用、困窮な意味を帯びている。

 :“分かったら、分かったで、年明け早々、何でめでたい物を言わずに、こんな気持ち悪い言葉を言ったのか?”

 皆さん:

 新年早々、まず縺れた麻の塊のような「拾柴」を投げ出した目的は新型コロナウイルスが変異したそうで、国内にもまたぼつぼつとクラスターが出てきた背景を踏まえ、ここで忙しくて、煩わしく感じている今こそどうかミスを出さないように切に願っている同時、すべての魑魅魍魎を原形に晒してから、一網打尽をする希望も持っている。そして、来期から混乱を除き、正常に戻すように、目の前の「拾柴」状態を収束する言葉の話をする予定がある、最後に見えないウイルスを一日も早く消えて、世の中に無病息災の新しい一年を返せよと祈ってやまない。

?                            ,1,3

昔の台所

単 語 解 釈:

①湯甕(蘇州弁では汤罐と書く):竈の中、火を燃やす部分の隣に埋められた水を入れる容器、火を燃やすと水を加熱する、簡単にお湯を作れる物、今の温水器の前身。

②黄庭経:それは詩人の黄庭堅のお兄さんではない。道教の経典「老子黄庭経」のことだ、長寿不老の術を修練する内容だ。

③雷鋒:~。人民解放軍の兵士、共産党員。人民にサービスする模範として宣伝された。雷鋒精神というのは今のボランティア精神に近い。年8月15日、戦友がトラックをバックするのを指揮する時に不意に車体に突き倒された電信柱で頭を打たれたため重傷を負い、間もなく死去。年3月5日毛沢東が“雷鋒に学ぼう”と言う題字が発表され、全国規模の学習活動が開始、数十年に亘って、毎年同じ日に義務労働をはじめ、いろいろとその日に限って無料サービスなど活動が行われている。つい最近下火傾向になっているが、まだ馴染みの名前として時に聞こえる。

④民間環境保護専門家兼国学沈大師:沈巍、上海人。浮浪生活は年3月に発見されたまで26年経過していた。嘗て公務員だった彼はゴミ箱から段ボールや、紙などを掻きだして、集めてから売却した癖で職場から引退させられた。毎日、再利用できるごみを拾って、売却する暮らし方をし、ほかの時間を読書にしている。つい、誰かに発見され、ネットに投稿したことで、一時的に大人気を集めた。国学知識を豊かに持っていると言われて「浮浪している国学大師」まで称号を贈られた。その後社会に復帰、一年足らずで、煩わしいと言っていた、以前の生活に戻った、今は殆ど彼に関連した情報、ニュースが見えなくなった。

後書き:

 「拾柴」の源は多分昆曲の芝居「彩楼記」の演目にある「拾柴」(柴を拾う)、「溌粥」(お粥を零す)の二こまから来ただろう。内容は北宋の宰相、呂蒙正(~)が出世していない頃の困窮な生活ぶりを描いた物だ。寒い窯(破棄されたレンガを焼く窯)に身を寄せ、炊事する時、柴がなかった、どこかで拾うしかなかった、雲板(お寺の食堂前に吊るされている板、叩くと食事する信号を発する)の音を聞いて、お寺へ行って、ただ食いをしようとすれば、また坊さんに揶揄われた。本分の説明はそれを源にして作った物だ。「席柴」が正しいという説もあるが、私はその詳細を考察することができなかった、だからあくまで本文は一家の話し(一つの説)に過ぎないと思う。有識者による他説があれば、大歓迎。硬い柴だろうが、柔らかい柴だろうが、いいご飯が炊ける柴こそ、いい柴だ、うまく解釈できれば師となる。

QRコードを軽くタッチして、もっと私の文章をお楽しみになってください

蝠荷堂主



转载请注明地址:http://www.lingpigui.com/lgxx/7077.html
  • 上一篇文章:
  • 下一篇文章: 没有了
  • 热点文章

    • 没有热点文章

    推荐文章

    • 没有推荐文章